「もしもぼくが死ねと宣告されるか、自分で死ぬときめたとき……そのときは、なにをすることもゆるされるときだ。そこでなにをするか? ……期待しておいで、悔いあらためた敬虔な死にかたなんかしやしないから。世界はぼくが人間にたいしてどんなにふかい怨恨と憎悪をもちつづけてきたか、それを知る必要がある」

                      ――倉橋由美子/『暗い旅』/河出文庫


倉橋由美子の『暗い旅』で選んだシチュエーションは龍安寺でした。
倉橋由美子の著作は『大人のための残酷童話』や『星の王子さま』など以外、ほとんど絶版になっていたのだけれど、
最近になって、なぜだか再評価されつつあります。
『パルタイ』が再版されたり、同じく再版された『聖少女』には桜庭一樹が解説を書いたり……この『暗い旅』もそんな中のひとつ。
発表した当時は文壇からはバッシングされまくったりもしていたけれど、倉橋由美子自身はこの作品を立派な「少女小説」と宣言しています。

主人公の「あなた(私)」には恋人がいる。
その「かれ」とは十七歳のとき、鎌倉の海辺で出会い、一瞬で恋におちた。
しかしふたりは恋という感情を軽蔑するという価値観を同じくしていた。
京都で大学生活を送る間も、お互いに協定をつくり、愛しあいながらも、
兄妹のように過ごし、かつお互い以外とも交渉をもつ、という「危険な関係」を続けていた。
その関係は危うく、ふたりとも自己演出と演戯を駆使して関係を築いていたのであった。

が、あるとき「あなた」は「かれ」から切りだされる。

「もうそろそろわれわれの《危険な関係》は中止した方がよくはないかな」とそのとき かれはいった、あなたの胸からはなれながら。「ぼくは飽きてしまった、もっとほかの関係を考えてもいいころだ……」あなたは軽い不安をかんじながら首をもたげ、かれの唇をふさいだ、「たとえばどんな関係?」するとかれは笑いだした、「たとえば、ぼくたちは結婚するのさ」

 しかし、「あなた」は結局その「危険な関係」を変更しなかった。
そしてある日突然、「かれ」は「あなた」の前から姿を消してしまう。
「あなた」は、もう既に「かれ」が死んでいるのではないかと漠然と感じながら、東京・鎌倉・京都と、「かれ」を探す旅をする。

京都……なぜあなたは京都へ行くのか、何を求めて? あなたは執拗な尋問をくりかえ す、しかし論理的な追及に耐えるような理由はなにひとつみつけることができない。彼を探すのが目的だとすれば、この旅行は最初から無意味でむなしいだけだろう。

京都はいわば、「あなた」と「かれ」の「愛の遺跡」らしいですね。
龍安寺そんなふたりの遺跡のひとつです。
「あなた」は「かれ」とふたりでそこを訪れたことを回想する。

龍安寺の庭、あれは禅の精神にフォルムを与えたというようなものではないはずだ…… その白砂と石だけによる平面の構成をもとつぜんの独創ではないだろう。以前、あなたはそれが東洋的な抽象の極点にあらわれた作品であるという漠然とした考えをもっていた、しかしその考えは放擲しなければならない……この様式はあきらかにあの向月台と銀沙灘をもつ慈照寺銀閣の庭園をうけつぐものだ修正は大きくはない、白砂の平面の中に十五個の石が配られたのだ……こうした様式は《竪庭》から成長したものらしい、とあのときかれがいった、あなたのまえでディレッタンティズムを発揮するときの癖で、眼を遠いところに放ち、ときどきあなたにはにかみの微笑を見せながら。だから龍安寺の方丈前庭から植物が排除されているのは、石と砂の構成を指向するアブストラクシオンの極点をしめすのではない、反対に、装飾を許さなかった竪庭の伝統が慈照寺の砂盛り、この龍安寺の石の排列をつうじて修正されていったのだ、するとこの系列の完結をしめすのはあの大仙院の庭園であるにちがいない……そういうあなたの意見にかれも賛成だった。

引用長っ。
しかしこの文章だけでも記憶にとどめて龍安寺をみやれば、たちまち誌的な空間に変貌することはまちがいないでしょう。
この龍安寺の桜の樹のかげで、「あなた」と「かれ」ははじめてキスをしたりしたのですが、ここでも「あなた」は「かれ」を発見することはできず、さらに面影を求めて京都の街をさまようのでした。


と、いうカンジの『暗い旅』。
龍安寺の枯山水、確かにすばらしかったです。
龍安寺自体はみどりが多いのと反対に、枯山水は自然物が徹底的に排除されているようで……しかし、何がディレッタンティズムなのかアブストラクシオンなのかまではさすがに解らず(ってゆーか、ディレッタンティズムは英語だけどアブストラクシオンはフランス語だよね?)、とりあえず庭を見ながら3人とも呪文のように「あれがアブストラクシオンか……」というセリフをデッドエンドシンフォニーさせました。
そんな折、入口近くに色紙が展示してあったのが目にとまりました。
それを見て円が、




とりあえず残されたふたりは双児宮を超えたあたりで滂沱の涙を流しているにも関わらず、「なんでもない……」といわれたので、空気を読まざるを得ないごときの状況におちいりました。
……しかし、ディレッタンティズムっていったいなんなんでしょうね。